ibuki

僕はサッカーを幼稚園から現在の大学4年生まで続け、人生の大半をサッカーに捧げてきました。最近では学生生活が終了するということで将来のこと、サッカーを始めとするスポーツに関しての興味が広がりつつあります。ここでは僕の日常的な事から感じたことやサッカーに関しての考え方を超主観的に述べていこうと思います。

その言葉に責任はあるか。「結果が全て」の世界で感じる違和感。

よく人はこういう。

 

「結果が全てだからな。」

 

その言葉にどれだけの責任を持って言っているのだろうか。

勝負の世界、「どう努力するのではなく、どう結果を出すのか」がとても重要なことだ。

 

努力は裏切らない。

そんなものは綺麗事だ。

 

結果が出せない人は努力していない。努力したことは他人の評価には寄与しない。

これが通常の    ``他人からの``   見方であり、考え方だ。

しかし、その言葉を他人に向けていいものなのか。

・ 

人には人の苦労があって過去がある。それを知るのは親友でも親でもない。自分自身にしかリアルは分からない。

 

この「結果が全て」という言葉は自分自身に向けることで効果を発揮する。

自分をモチベートし、結果を出すためにその過程に全力を注ぐ。

その時にこの言葉が自分を後押しする。

まだ結果は出ていないだろう、と。

 

 

その言葉は他人に使うものではない。自分に向けるものだと。

 

言葉には生き様が宿る。

ならばその苦労を知っているならばその場を

「結果が全て」という言葉では

終わらせないだろう。

舞台観覧から得たものとは?

3/25 月曜日

部活のオフと高校2年生から大好きな女優さん、芳根京子さんの初舞台の日がたまたまかぶり、たまたまチケットを入手出来たという事で、

新宿の紀伊國屋ホールで舞台を観覧して来た。

 

「母と惑星について、および自転する女たちの記録」

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内容についてはここでは控えます。

舞台の出だし、直感で感じたのは女優さん達から出ている

エネルギー、覇気、そして情熱達。

声がホールに響いているから、

声が大きいから。

違う。

その一瞬、その役に憑依し、観客の心を掴みにいく。その姿勢、目つきがそう感じさせた。

 

まるで

「好きな事に没頭し、極限を求めてる」 

ように見えた。

 

今の自分と重なって見えた。

サッカーに没頭する自分。

役、舞台、俳優業、に没頭する人。

好きな事を突き詰める事に変わりはなかった。

 

人が人に何かを伝える、そして伝わると感じる

瞬間、そこにが無いといけない。

自分が感動しない事には人にも感動を与えることは出来ない。

そして、人の話す言葉には生き様が宿る。

 

中途半端に通し、ぶれぶれの軸では真正面から人と向き合えない。そして人はそれを感じ取る。

今回の体験で一流の姿をみた。

本物からでるオーラは知名度ではなく

本質的な肉体から発せられた

情熱からくるものだった。

 

本物に触れると己の未熟さに気づく。

追求する事の素晴らしさを感じることができる。

復帰に向けてのエネルギーを養った。

無駄と思うことは無駄じゃない/イチロー

その言葉通り、舞台一つとっても成長に還元させたい。いや、させる。

意識が変われば行動が変わる。

変化を楽しむ。

ぶれない軸を通す。

 

また本物を感じに足を運びたい。

 

これがみんなの活力になりますように。

 

大学4年生になった今、アウトプットについて考えてみた(第1回)

「大学4年生になった今、アウトプットについて考えてみた」

 

 この文字通り第一回目はアウトプットについて考えていこうと思う。まず僕がブログを始めようと思ったのも、「結局人生はアウトプットで決まる」という中島聡さんの著書や友達の寺岡君が買った「アウトプット大全」という本屋さんでは超人気本を、しっかりミーハー気分で読んでみたのが事の始まりだった。

 

 アウトプットとは何か。それは僕の言葉で言うならば「発信」がしっくりくる。表現に正解がないとするならば僕の中ではこの解釈は100点満点だ。つまり、自らが得た情報や知識(インプット)を自分の中に溜め込むのではなく、外部へ発信する。そのことで確実に自分の中にインプット情報を落とし込むことができるというものだ。本の中では他人に説明することやノートに書き出すこと(文字起こし)をその例としている。

 アウトプットする意義について個人的に考えてみると3つの意義を考えついた。

①人に簡潔に伝える能力を養うことができること

②自分のキャパを広げることができること

③自分の存在価値を高めることができること

 この後に話したいことがあるのでこの説明は簡潔に述べてしまうが、つまりは外部に「発信」するということは、適当なことは言うことができない。それは自分というものを文字という媒体で評価されるから。ならば、しっかりとした自分の意見を文字起こしする必要があるし、それを簡潔に述べなければならない。そして、情報を扱うことで自分の知らなかったこと、興味が全くなかったことに詳しくなる。つまりキャパが広がる。「知ったかぶり」とか「語りたがり」とか言われるのかな。でもこのような行動は他人に、自分という存在を知らせることができる。存在が大きくなればなるほど存在価値は上がっていくだろう。偏った考えかもしれないが僕なりの解釈だ。

 

 

「アウトプット」=発信

この=に関してはみんなの意見も聞かせて欲しいです。(コメ欄へ!!)

 

 

ここからが本番。そもそもなぜアウトプットに興味を持ったのか。

 それは僕の今現在の境遇、将来の夢とすごく関わりがあると感じたからだ。大学4年生、22歳の代。ここまで17年以上の月日をサッカーに費やしてきた僕にとって最後の学生スポーツをする年になった。今現在、関東大学サッカーリーグに所属するある大学でサッカーをしている。大学までサッカーをさせてくれた両親には感謝している。と同時にここまで両親には様々な局面で背中を押してきてもらった。何が言いたいかというと僕自身に「主体性」を感じられないままここまできたというのが本心だ。サッカーは大好きだ。サッカーなくして人生は語れない。だけれどそのレールを自然と引いてくれたのは間違い無く両親だ。自分の決意だけで、自分の思いだけでここまでは来れない。お金、労力、時間の全ては両親が担った。鉛筆一つ、財布一個も持たずここまでやってきた自分にはどれほどの力があるのだろうか。

 

大学4年生。どれだけの人間になれただろうか。

 

そんな思いを抱いた僕は「結局人生はアウトプットで決まる」を手にとっていた。

 

  

  『僕の夢は教員(指導者)としてユース年代にサッカーを教える事』

 

ここが「アウトプット=発信」に繋がってくる。教職過程を大学で取得している中、生徒を想像し、どのような授業を行うかを日頃考える僕にとっては「伝える」という事は身近なことだった。どうすれば生徒がより理解してくれるだろうか。なんてったって科目が社会科である。困ったものだ。教員にとって、指導者にとって「伝える」ということはものすごく重要なことである。自分の人生経験を踏まえてのアドバイス、サッカーに関しては新しい視点をプレイヤーに伝える必要がある。逆にそれがやりがいと言えるのだが。

ここで自問自答してみたのだが、「自分は発信する人間(プレイヤー)になれているのか?」

答えは明白であった。「なれていない」

ではどうすればいいか。変わるしかない。将来の夢に向かって今から始めなけらば手遅れになる。発信できるようにならなければ。自分の価値を上げていくのは今だと気付いた瞬間だった。

 

こうやってブログを書くのもそれが理由だ。

なんとなくわかって頂けただろうか。

アウトプットに興味を持った僕の現在地である。

 

アウトプットという言葉に出会ってインプットする機会を増やすことを意識するようになった。

前十字靭帯断裂した僕は、現在怪我人。

様々なカテゴリーの練習を視察し、色んな考え方の人と触れることでキャパが広がってきた。

吸収と発信の連続。

 

理想の指導者像に近づくために今日も。